福音の再発見 - ヨハン早稲田キリスト教会メッセージ集
場所:ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会
主日2時礼拝
ローマ信徒への手紙7章18節-8章4節
主題:福音の再発見
皆さん、こんにちは。
今日の本文はローマ信徒への手紙であります。
ローマ書は新約聖書の中でも福音に対する核心的な内容を語っている書簡であります。
この手紙が書かれた時、使徒パウロはまだローマにいませんでした。
彼はローマに行きたいという切なる願いの中でこの手紙を書きました。
使徒パウロは
1:15それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。
と訴えている通りです。
パウロは、ローマの人々に福音を告げ知らせるためにこの手紙を書きました。
では、ローマの人々は福音を知らなかったのでしょうか?
いいえ、知っていました。
イエス・キリストが神の子メシアであること。
イエス様が私達の罪の身代りに死なれたこと、
そして三日目に蘇られたこと。
主イエスを信じるすべての者に罪の赦しと永遠の命が与えられること。
これらはみな福音の内容です。
ここにいる既に主イエスを信じているクリスチャンの兄弟姉妹はこの福音を信じています。
信じていない人も、福音の内容について、聞いた事はあると思います。
それは主イエスの十字架と復活が私達の罪の購いのためであるということ。
その十字架を通して私達に神の愛を示されたということです。
ここで、私達は使徒パウロが告げ知らせたい福音を考えてみなければなりません。
私達はKOSTA集会を通して、恵みを受けました。
しかし、私達を本当に生かすのは何であるのか。
それを今日考えてみたいと思います。
今日、分かちあいたいことは、真の福音は、私達を自由にするということです。
ある人々は言います。
人間は福音を2度体験しなければならない。
これはどういう意味でしょうか?
異端的な意味で言っているのではありません。
人がクリスチャンになる時はどういう時ですか?
福音の意味を悟り、その内容を受け入れた時です。
皆さんもいつか、イエスの十字架と復活の福音を受け入れたのでしょう。
しかし、考えてみましょう。
福音はノンクリスチャンの為のものでしょうか?
主が十字架で死んだこと、蘇られたこと。
それはただイエスを知らない人々が救われる時にだけ意味のあるものでしょうか?
多くの人々の信仰生活のスタイルがあります。
ある人はイエスの福音を聞き、神の愛を知り、
その感激で信仰の歩みを続けていく人がいます。
勿論素晴らしいことです。
私達の全ての信仰生活の土台は、救いの感激です。
しかし、これだけが私達の信仰生活を堅固でゆるぎないものにしてくれるのでしょうか?
多くの人々は、イエス様を信じて、救われました。
十字架の意味を知ってます。
恵みが何であるか、知っています。
神の愛を信じています。
それにも関わらず、人々は信仰のマンネリズムに陥り、信仰生活に喜びがなくなり、
惰性で何となく信仰生活を送る人がいます。
また、クリスチャンになってから、
自分はいつまでたっても乗り越えられない罪の問題がある事を知り、
一生懸命頑張っているにも関わらず、
罪の葛藤で悩み、苦しみ、喜びのない信仰生活を送る人がいます。
かつて私もそうでした。
人は救われてクリスチャンになってから、もっと罪に対して敏感になります。
そして、救われてもなお、乗り越えられない罪の問題で悩み、苦しみます。
それが私達の問題になっています。
私自身もそうでした。クリスチャンになって1年過ぎてもです。
今日の本文を見てみれば、偉大な宣教師、ヨーロッパに福音をつたえ、
中世、近代ヨーロッパの歴史の基礎を築いた人物、使徒パウロでさえも、
その罪の問題に悩む姿を見ることができます。
それが7章18節~25節です。ご一緒にお読みしましょう。
ここで、私達の心と体を支配する力があるということをパウロは語っています。
罪の力であり、肉の法則です。
こういう絶望的な状況から私達を解放するものは何でしょうか?
私は救われました。福音を知っています。
それではこれから何の知識で、何の力で、
私達は罪の問題を乗り越えていけば良いのでしょうか?
答えは、やはり福音なんです。
人間には二つの乗り越えるべき困難があります。
一つは、罪の赦しを頂くこと。
これは人間の力ではできません。
だからこそ、罪の許しを頂くために、主の十字架が必要です。
もう一つ乗り越えるべき困難があります。
それは、救われて罪が許されたクリスチャンが、罪の力を克服することです。
多くのクリスチャンは、罪の赦しには十字架に頼るけれど、
内在する罪を克服するのには、自分の力と精神力で何とかしようとするのです。
ここに間違いがあります。そして、このことを律法主義と言います。
律法主義とは何ですか?
自分の力で神の前に正しいと認められようとすることです。
そして、自分の力で罪の問題を克服できると錯覚して、
血のにじむような努力をすることです。
実は使徒パウロでさえも、この罪の問題の克服の意味を知らずに、
自分の力で必死に努力しました。
しかし、善をなそうとする意志はあるけれども、それを全うできない、
罪の力と法則があることに気付きました。
自分が正しく生きようと努力すればするほど、罪の力は明確に自分に迫って来ました。
そして罪の力を克服できない自分の無力さに気付きました。
だからこそ、使徒パウロは24節で言っています。
『自分は何と惨めな人間なのでしょうか?』
これが使徒パウロの真実な告白なのです。
しかし、私達はここで落胆、失望してはなりません。
人間の力では罪の克服は無力です。絶望的です。
だからこそ、私達の希望があります。
その希望は、その解決は、イエス・キリスト以外にないのです。
KOSTAの聖会のメッセージでシンギヒョン先生も言われました。
最も絶望的な状況においてこそ、最も大きな希望を見出すことができる。
最悪の力が働く中でこそ、最高の力が発揮される。これが福音です。
私達は主の十字架の事件を考えてみましょう。
2000年前のカルバリの丘で何があったのか?
そこでは、神の子が死んだのです。
偉大な神の子、奇跡を起こす神ご自身が死なれたんです。
最も人類にとって絶望的で、サタンにとっては喜ばしい出来事が起きたように思えました。
しかし、違ったのです。
人類にとって神の子が死ぬ事は最悪の出来事に思えました。
しかし、実はそれが最高の出来事だったのです。
なぜなら、主の十字架の死こそが、私達の罪の問題の解決だったからです。
イザヤ53:6わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向って行った。
そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。
これにより、私達の罪は贖われました。
そしてさらに三日目に主イエスはよみがえられました。
これにより、サタンの神に対する反逆の旗印は完全に折られました。
主は死と悪魔に勝利されたのです。
同じようなことが、今も私達に起こります。
私達は人間の全く無力な姿を知ることができます。
使徒パウロはそれを知りました。
絶望の崖っぷちまで行きました。
しかし、使徒パウロはこの絶望の崖っぷち、自分の罪に対する弱さと惨めさをつくづく知る中で、
本当に希望を見出したのです。
自分ではできない、律法主義は無力だ。
だからこそ、主の力のみ、十字架の力のみ、必要であります。
8章1節、2節を読んでみましょう。
8:1従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は罪に定められることはありません。
8:2キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。
突然、うって変って使徒パウロの心が変化したように思えます。
7章の最後と8章の最初の間には何があったのでしょうか?不思議です。
惨めさを嘆いたパウロが急に希望と喜びに充ち溢れているように思えます。
私達は7章の最後と8章の最初の間に何があるのか、知るべきです。
それは人間の力に対する徹底的な絶望と無力感、
これが主イエスの福音に対するどこまでも揺るがない希望へと変化したのです。
私達は、このことを福音書のイエスの働きを通しても垣間見ることができます。
マルコによる福音書5章には、12年間も出血の止まらない女性の物語があります。
5:25さて、ここに12年間も出血の止まらない女がいた。
5:26多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、
ますます悪くなるだけであった。
5:27イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
5:28「この方の服にでも触れれば、癒していただける」と思ったからである。
5:29すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
ここには、私達が学ぶべき本当に大切な霊的法則があります。
まず、この女性が癒されたのはなぜなのか?
正しく言えば、なぜ『この女性だけ』癒されたのか。ということです。
ここにはこの女性だけだったのか?
いいえ、押し迫る大群衆がイエスのすぐそばにいました。
押し合いへしあいしていました。
そんな中で、神の圧倒的な力は、この女性だけに流れていったのです。
これはなぜなのか?考えてみる必要があります。
この女性は、自分自身にも、この世のあらゆる医者にも医学にも完全に絶望していました。
この女性が置かれていた状況は絶望のどん底でした。
12年間、病気を治そうとしました。多くの医者にかかりました。
果てしなく財産を費やしました。
しかし、そこには何の実りも、効果もありませんでした。
この世の力に頼りました。医学に、自分に頼りました。
しかし、結果は全くむなしく、ますます酷くなりました。
この世に対して、自分に対して完全に望みを絶たれました。
そして、最後にこの女性はイエスの話を聞いたのです。
そして、イエスの服に触れることに人生の全てをかけました。
イエスにのみ全ての希望を起きました。
これが答えです。
そして圧倒的な神の愛は、その女性のみに注がれていきました。
愛する皆さん、私達はどうでしょうか?
ここで、私達は肉の力に対する完全な絶望は、
イエス・キリストに対する唯一の希望に変わることを見ることができるのです。
なぜ、私達は神の圧倒的な力を体験できないのでしょうか?
なぜいつも中途半端な信仰なのでしょうか?
我々は、この癒された女性の周囲にいる数多くの群衆のようです。
イエスを追い求めてはいます。
恵みを慕い求めています。
しかし、どこかに我々はこの世にも望みをおいています。
自分の力をまだ信じています。
我々には今だ自尊心やプライドが残っています。
だから、我々に主に力は注がれないのです。
ローマ書7章の使徒パウロの告白、『わたしは何とみじめな人間なのでしょう』
これは彼自身への絶望の終着地点です。
しかし、同時にイエスに対する希望の出発地点でもありました。
だから、そこから8章へのイエスに対する希望、確信が満ち溢れるようになるのです。
私達は今、どの地点にいるのでしょうか?
ローマ書7章にも至らないのか、それとも7章にある葛藤と苦悩の最中なのか、
それとも8章の主にのみ頼る恵みの生活へと突入しているのか。
我々は、もう肉の力に頼るのはやめましょう。
もし必要であるならば、とことん気の済むまで頑張って見て下さい。
そして、いよいよ自分の力に絶望してみてください。
その時に、主の恵みの生活が始まると信じます。
8章3節に核心的な内容があります。
8:3肉の弱さのために律法が成しえなかったことを、神はして下さったのです。
つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、
その肉において罪を罪として処断されたのです。
肉の弱さのために律法がなしえない事は何ですか?
主が喜ばれるあらゆる良い行いです。聖なる生活です。
しかし、肉の弱さがこれを成し遂げないと聖書は言います。
しかし、私達はこれをそれでも肉の力で成そうとします。
だから律法主義に陥り、いつまでも悩むのです。
聖書はそうするのではないと言います。
そのできない自分の代わりに、神がして下さった恵みがまさに十字架です。
十字架で、私のなしえない良い行いは、代わりに成し遂げられました。
十字架の上で、罪の処分を通して成し遂げられました。
この代わりの恵み、代わりの解決です。
自分の力ではなく、主の十字架による解決です。
我々は救われる時にも十字架の恵みを体験します。
そして救われた後、クリスチャンとして本当に自分の弱さに絶望した時に、
再び十字架が我々にはっきりとその意味を現わしてきます。
十字架の恵みを再発見することです。
罪の赦しの為の十字架ではありません。
罪の問題を克服するにも、イエスの十字架以外にないことに感謝しましょう。
多くの用いられたクリスチャンは、この7章から8章への大変化を体験した人々でした。
自分の力に絶望し、主にのみ希望を置いて、それから主の力が彼らに注がれました。
私達はどうでしょうか?
使徒パウロが受けた恵み、12年間出血の止まらない女が受けた恵み、
この恵みを体験できる我々になれると信じます。
12年の人間の力は徒労に終わります。
しかし、主の恵みは我々を一瞬にして癒し、清くすることができるのです。
この恵みを体験した我々が、下半期、尊く用いられるよう祈りましょう。
0 コメント:
コメントを投稿