2012年1月15日日曜日

ヨリックの迷い道 金澤

私が金澤大學工学部に就職した昭和27年(1952)、金澤で内灘闘争が始まりました。
金澤市の日本海に面した内灘砂丘は下北半島の砂丘や鳥取砂丘に次いで日本では
3番目に大きな砂丘です。この砂丘にアメリカ軍の要請によって砲弾の試射場を作る
という「事件」が発生したのです。

右の写真が内灘砂丘。一直線に伸びる
長い砂丘です。

昭和25年6月25日、突然朝鮮半島の38度線
全域で南北朝鮮軍が戦争をはじめました。
ただちにアメリカは全軍に朝鮮出兵を命令
しましたし、中国人民義勇軍も朝鮮戦争に
参戦してきました。
これを機会にマッカーサー元帥は吉田茂首相宛に書簡で「国家警察予備隊」の
創設と海上保安庁の増員を指示したようですし、GHQは兵器製造許可を政府に
指示したのでした。日本の大企業はこの戦争に必要な軍事機材の製造・修理などを
手がけて特需景気にわきました。この時に製造した大量の砲弾の、いわば品質管理を
行うためのテストをする場所として日本政府は昭和27年12月2日に内灘を使用する
事を正式に閣議決定したのでした。

内灘村は砂丘しかないような貧しい村でした。ここを舞台にして、試射場賛成・
反対の両勢力がいわば激突したのです。賛成派というのは勿論国家権力を実力で
行使する警察ですし、反対派というのは労働者・学生でした。反対派は砲弾の着弾地
である権現森に座り込みをしたのです。
この反対運動は翌年夏にかけて次第に激烈なものとなり、全国から労働者・学生が
内灘に集結して着弾地に座り込みを続けたのでした。

私の勤め先の大学生たちも勿論その座り込みに駆けつけるのです。
学生たちは泉川教授の所へ来て、…先生の次の授業を休講にしてくれませんか?…
先生は言います。…休講にはしないよ!… …僕たち内灘へ行きたいんです。あの
土地を戦争のために使わせたくないんです!… …私は自分の仕事だから授業は
ちゃんとやるよ。だが君、もし腹が痛くなったらどうするね。… 学生たちは急に
明るい顔色になって、…アッ わかりました。… といって皆さん腹痛になって
元気よく内灘へ駆けつけました。先生もニコニコして自分の机で岩波新書を開く
のでした。この時代、岩波新書は実にいい本がたくさんありました。泉川先生は
脇の本棚に当時出版された岩波新書を全部買っておいてくれてあったので、ワタクシは
折々に抜き取って読ませていただいたのでした。

五木寛之に『内灘夫人』というのがあります。1969年に書いていますから、内灘闘争が
終わってから10年以上も経ってからの頃でしょうか。筋をおおざっぱに…。

霧子と、夫の良平は、内灘闘争の座り込みで知り合い学生結婚をするのです。
時が経ち、良平は事業家として成功します。だが霧子は座り込みをしていた頃の一途な
気持ちは抜けきれません。そんな時大学紛争の活動家である森田克巳と出会うのでした。
霧子は克巳の中に自分の青春の時の感情を見つけて溺れていくのです。

この小説はほかにもいろんな男女の模様が出てきますが、全部で原稿用紙700枚ほど
にも及ぶ大きな小説で、しかも内灘闘争から大学紛争に至る期間の世情をいっぱい
織り込まなくちゃならないので読者の興味を引くためにも仕方のない事でしょう。

この小説は、霧子が青春の時期を内灘での激しい闘争と恋愛の中で過ごし、時が経ち、
それが終わったときどう生きるか、ということで終わります。最後の数行を引き写して
おきます。良平からも克巳からも離れて一人で金澤へ行き、夜の内灘へ行きます。

 霧子は顔をそらせて胸一杯つめたい夜の空気を吸い込んだ。そのとき彼女の頭の中に、
砂丘一面に白く降りしきるニセアカシアの花房のイメージが、音もなくひろがってきた。
〈さようなら、私の内灘。私の青春………〉
 遅すぎた出発だが、出来る限り遠くまで行ってみよう、と、心の中で呟きながら、
霧子は風に逆らう一本の樹のように、いつまでも夜の中に立ちつくしていた。

五木寛之は あとがき でこんなことを書いています。
 この作品を書き上げた後で、ひどく疲れた感じが残っています。… それは恐らく
「内灘夫人」は私だ、という意識が常に頭の中で点滅していて、それが絶えずペンを
引っぱったり、逆に走らせたりするという思いがけない抵抗となって作者を疲れさせた
のかも知れません。…
 内灘は、私にとって現在も最も好きな場所の一つであるだけでなく、私自身の
ある時期の記憶と重なり合って、いつまでも消え去ることなく残る場所のような気が
しています。十六年前の内灘の姿は、もうすでにそこにはありません。
ニセアカシアの森も、村も、砂丘もすっかり変わりました。……
 しかし、内灘の森や砂丘は変わってしまっても、内灘とか、権現森とか言う言葉に
大して現在も変わらぬある痛切なイメージを抱き続けて、それぞれの人生を生きて
いる人々は決して少なくないはずです。

ヨリックにとっても内灘試射場の闘争は青春の一時期の大きな出来事でした。
「サークルともしび」という歌声サークルのメンバーとして座り込みに出かけるのです。
夜になると南町にあった「労働会館」の二階に大勢の労働者、北陸鉄道とか大和紡績
とかの男女が集まってきまして、フォークダンスとロシア民謡や労働歌を歌うのです。
その中でワタクシもみんなに關鑑子・中央合唱団の編集した「青年歌集」の歌を
片っ端から教えたり、マイムマイム、コロブチカ、オクラホマミキサーといった
フォークダンスを一緒に踊ったりしたのでした。
内灘へ行くと本当に全国から合唱団や劇団の人たちが集まってきて輪を作り、スクラムを
組み、声の続く限り歌を歌ったのでした。
五木寛之も、のちに五木夫人となる岡玲子と一緒に肩を組み声を張り上げたのでしょうか。

これはそんな時、東京・
日比谷公会堂で開かれた
「日本のうたごえ」全国
大会に出演した
「サークルともしび」の
中心メンバーです。
日比谷公会堂のあの大きな
階段の所で写した記念写真
です。
1953年11月のことでした。
(ワタクシは2列目左から
4人目だろうと思います)

サークルともしびは内灘
闘争の時にも中心的な
存在だったし、だから
ワタクシのような者に
まで警察は時に監視の
目を光らせたことも
あったようでした。

だが結局は内灘村民に対する多額の補償金(たぶん漁業に出られないなどの理由による)
で村民の結束は崩れ、反対運動が大きかっただけに補償金がつり上がった、というような
ありきたりの結末となってこの闘争は終わったのだろうと思います。

内灘夫人霧子の夫である良平はこういう反対運動の結末を知っている人間として
書かれているのだろうし、霧子は平和を愛する純粋な人としての精神が、時の
移り変わりとともに周囲からずれてゆく事のいらだちから自分でも思いがけないような
行動となってあらわれるのでしょうか。

いまも原発被害の「補償」のことでお金の額が取り沙汰されているようです。
お金っていやなもんですねぇ。

うたごえ運動はその後も国家権力に対する人民の抵抗の手段として広く使われます。
妙義山麓にも基地建設という話が出るとすぐに「守れ妙義」という歌が出来て合唱団が
駆けつける、という時期があったのです。

これは北陸信越地方の
「合唱団会議」というのを
長野市で開いたときの写真。
赤旗に「うたごえは平和
の力」と書いたのが合い言葉
でした。
(ヨリックは2列目右から
3番目のようです。ちょっと
引っ込んでいますね)
この時は真冬の長野市。
寒かったです。
泊めてくれた家ではたくあんを肴にお茶が絶えることなく注がれて、トイレが家の外に
あるのでつらい思いをしました。


こういううたごえ運動の
組織は、一声かければ
すぐにこんなに大勢
集まるほどの力を持って
いたのです。これだけ沢山
いるとワタクシはどこだか
自分でも全く判りません。

こんな具合に沢山の人が
集まっていると、中には
良平と霧子のような
カップルも生まれていたかも
知れませんね。

その頃よく歌った歌に わかものよ というのがありました。

     わかものよ 体をきたえておけ
     うつくしい心が たくましい体に からくも
     支えられる 日がいつかは来る
     その日のために 体をきたえておけ
     若ものよ

この歌を作ったのは、 ぬやま・ひろし という人です。
本名は西澤隆二(たかじ)です。『驢馬』という雑誌を 中野重治、堀辰雄、窪川
鶴次郎、佐多稲子といった人たちと作りました。室生犀星、芥川龍之介が応援しました。
中野重治が早くから左傾して、堀辰雄以外の人は共産党に入党しました。
中野重治や西澤隆二たちは治安維持法という法律で昭和9年に逮捕・投獄され、懲役6年の
判決、満期の後でも「予防拘禁」という名目でそれからあともずっと刑務所に入れられっ
ぱなしだったのです。
戦争が終わって昭和20年10月、GHQの命令で共産党員がようやく釈放されたのでした。
この時獄中にあった西澤隆二、筆名「ぬやま・ひろし」は、詩集『編笠』をつくり、
出獄後三一書房から発刊しました。 わかものよ の詩もその中に入っております。

牢屋の中ではこんな風景です。

    編笠すがた
  手錠をかけて、笠をかむって腰縄つけて、男ケンジがゆらりとあゆむ、
  後からヒロシも手錠をかけて、笠をかむって ぶらりとあるく、
  あるきゃひとやもゆらゆら揺れる、春の日ながを 軒じゃ雀が
  ひと声、 ち、 ふた声、 ち、

    冬の日
  目が覚めたら飯が食える そう思って床につく
  四時間したら昼飯が食える そう思って仕事をする
  五時間したら晩飯が食える そう思って仕事をする

この詩に歌をつけたのを私がサークルともしびで編集発刊した歌集に入れました。
牢屋の中ですから食べ物の詩がとても多いのです。

    饅頭の歌
  香りの高いそば饅頭 古代饅頭 唐饅頭
  田舎饅頭 酒饅頭
  時雨 桃山 鹿の子に すはま
  清水にさらした葛餅の色
  冬の爐べりの焼き大福 ああ 焼き大福
  反歌
  歯にしみる焼き大福の熱さ哉

こんな詩もありました。

    落葉に書く歌
  男と女のこころの出逢ひのむづかしさは
  梢をはなれた二枚の木葉が
  中空で行き逢うむづかしさに似通うている
  わかれた男を追うな わかれた女を追うな  
     

だが共産党の路線の対立でぬやま・ひろしは党を除名となります。この人だけではなくて、
文学や芸術などを愛していた文化人はおおぜい共産党を去りました。
それ以後、いろんな集まりではこの わかものよ の歌すら歌う事すら出来なく
なりました。それ以後の共産党は、何でもかんでも単に反対ばかりする実につまらない
政党になってしまいました。

その後内灘にはいろいろの有力政治家が入り込み、小さな村のわずかな村民に7億円の
補償金ですべてが解決してしまい、朝鮮戦争が一時休戦となり、内灘試射場は消えて
なくなり、砂丘には「アカシア団地」が出来ました。団地の住民たちはここで大砲の弾が
炸裂した事も、その下でスクラムを組んだ若者たちの事も何一つ知らないようです。
霧子が情熱を燃やした内灘闘争の座り込みも、大学生や合唱団や劇団員が座り込んだ
権現森も、時が過ぎると共に幻のように消えてしまったようです。

Related Posts



0 コメント:

コメントを投稿