中世の始まり/摂関政治(古瀬奈津子) - 見もの・読みもの日記
最近、日本史の中でいちばん苦手だった中世についての本をいくつか読んでいるうち、この「摂関政治」の時代が気になり始めてきた。一般に摂関政治とは「平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、代々摂政や関白あるいは内覧となって、天皇の代理者、又は天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態」(Wiki)と考えられている。したがって、良房:摂政の始まり→基経:関白の始まり→兼家・道長による最盛期、というふうに、藤原北家の歴代を追って記述されることが多いのではないかと思う。
しかし、本書は平安初期から道長登場までを駆け足に語ったあと、藤原道長(966-1028)のつくった政治システムが、摂関政治の「新たな段階」であり、いかに「新しい政治の枠組み」であったかを詳� �する。印象的には、私は本書の記述にかなり納得してしまった。要点は、単なる権力集中ではなくて、従来の太政官制度の無効化である。太政官制では太政官を経ることなく天皇に奏上することができない仕組みになっていたが、道長は、太政官をとばして天皇に奏上し、摂政と内覧で物事を決めてしまう画期的な政務方式「奏事」を作り出した。いまの政治家が「官僚主導から政治主導へ」を掲げるのと、目指すところは似ている気がする。清末の光緒帝がおこなった政治改革「戊戌の変法」にも似たところがある。いつの時代、どこの国でも、官僚制って放っておくと硬直化して、新しい枠組みが必要になるんだな…。
摂関政治のシンボルのように言われる道長であるが、実際に摂政になっていた時期は極めて短く、むしろ太� �官の筆頭である左大臣の地位に留まり続けることにより、新しい政治システムを浸透させ、太政官制を骨抜きにした。なんというか、食えない政治家! また、摂関期といえば、華やかな儀式や年中行事が思い浮かぶが、あれも道長が、他の公卿たちに強いた経済的・文化的賦課(わりあて)であったと本書では語られている。
実は、中世史の本を読みながらぼんやり感じていたことで、本書がぴたりと言い当ててくれたことがある。従来は、摂関政治が衰退して院政が登場すると考えられてきたが、最近の研究では「藤原道長の権力形態が院政へと継承されるのだ」という指摘がされているそうだ。それだよ、と膝を打ちたくなるような記述だった。かつて私が習った日本史では、平安時代は「古代(中古)」に括られており、本書も「シリーズ日本古代史」の最終巻であるのだが、摂関期は中世の前期に含めてもいい気がする。
本書が、摂関とともに「母后」の政治的重要� �を指摘しているのも面白いと思った。「単に皇子を生む存在なのではなく、摂関とは別の政治的機能を有しており、政治の表舞台で活躍していた」という。摂関期の女房文学の隆盛も、この点から見なおさなければならないかもしれない。
「ひろがりゆく『都市』と『地方』」と「国際関係のなかの摂関政治」の章では、より広い視野で、この時代の政治システムの実態と社会・文化への影響を考える。前者では、人事一般が天皇や公卿によって決められる中で、受領(ずりょう)功については「公卿たちの意見が一致するまで議論が続けられた」というのを面白いと思った。やっぱり名誉より金銭収入が絡むと、トップダウンだけでは決められないんだな。
後者の章では、唐風文化から国風文化へという従来の認識でなく� ��国風文化は唐風文化(中国や朝鮮半島の文化)の受容によって生まれ、唐風文化と共存していたことが述べられている。ただし、唐物が高級品であり、漢詩・漢文が公的なものであったことには同意するが、「勅撰和歌集が天皇の治世にとって重要な意味をもつようになるのは院政期なのだろう」という指摘には、ちょっと首を傾げた。そうか? 平安文学研究者は同意するかなー。
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