2012年1月25日水曜日

弁護士Kの極私的文学館:書物としての新約聖書

��聖書を読むようになったのは、小学校時代に、例の偽ユダヤ人が書いたベストセラーを読んだのがきっかけだった。当然のことながら、すべて真に受けた。世間一般に通用している考え方とは違う考え方に触れて、とても大人になったような気がした。いまとなっては書名も著者名も挙げたくないこのトンデモ本を何度も読み返した自分が悲しい。
 「聖書が読みたい」といった息子に対し、母は、自分が高校時代から持っているという新約聖書を与えた。新約聖書ではなく旧約聖書が読みたいのだというと、「もう20年以上前の聖書だから、そろそろ旧約になってるんじゃない?」と、真顔でのたもうた。冗談だったのだろうか?宗教心皆無の母親のことだから、聖書に関する知識もその程度だったのかもしれない。
 福音書だけではなく、使徒行伝や書簡を読むようになったのは、遠藤周作の「イエスの生涯」、「キリストの誕生」を読んでからのことだ。荒井献の「イエスとその時代」、八木誠一の「キリストとイエス」、土井正興の「イエス・キリスト」といったキリスト教関係の新書を読んでは福音書を読み返した。
 僕が聖書に接近した理由の1つとして、ヨーロッパにはじまる近代小説のバックボーンにはキリスト教的な倫理・価値観があり、それに反発するにせよ立ち返るにせよ、それを知らずして小説の意味を十分に理解することはできないのではないか、という気持ちがあった。太宰治の影響だと思う。しかし、福音書と、それに纏わるさまざまな解説書を読んでいるうちに、イエスの教えがどう理解されてきたかということ以上に、イエスとは何だったのかという問題そのものに興味が移っていったような気がする。
 田川建三の名前は、荒井献の著作などで目にすることが多かったが、実際に読んだのは少し後のことになる。田川建三の著作は、00年代半ばから次々に復刊されているが、僕が読み始めた頃は軒並み絶版で、書店には全く並んでいなかったのだ。
 最初に読んだのは「宗教とは何か」ではなかっただろうか。当時、僕は図書館に通ってキリスト教関係の書物を読み漁っていた。フィリップ・K・ディックからグノーシス主義に興味を抱き、ナグ・ハマディ文書やトマスによる福音書の関係で、改めて荒井献を読むようになったのがきっかけだったと思う。Q資料や、外典に触れているものを探し、荒井の弟子の大貫隆、そのネタ元とも思われるG.タイセンといったところに対象は拡がっていった。そういった中で、前々から名前だけは知っていた田川建三の本を借りてみたのだった。現在は洋泉社ブックスで「宗教批判をめぐる」と「マタイ福音書によせて」の上下二巻に分かれ復刊されているが、僕が最初に読んだのは、一冊にまとまっている旧版である。
 それは、当時の僕の興味に沿うものではなかった。しかし、この本を読んだ後となっては、これまでなんとつまらんことに興味を持っていたことかと思わざるを得なかった。遠藤周作の「イエスの生涯」や荒井献の「イエスとその時代」に対する徹底的な批判もすごかったが、なんといってもマタイ福音書の山上の説教に関する踏み込みは、これまで全く読んだことのないレベルのものだった。
 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」
 律法の具体的な行為規範を、観念のレベルまで拡張してしまうマタイ教団一流の説教ではあるが、そこには徹底することによって律法を相対化してしまうイエスの視点も含まれている。淫らな思いを抱かずに女を見たことがない男がいるかってんだ。なに、その女が姦淫の罪を犯したから石打ちの刑にすべきだって。なるほど、律法にはそう書いてある。じゃあ、おまえたちのうち罪を犯したことのない奴から石を投げなよ。誰か投げることができる奴はいるのか。と、逆説的反抗者たる田川のイエス像は語るのである。
 これ以降、僕の福音書の読み方はすいぶん変わった。
 さいわい!貧しき者!と語るイエスを、マタイはこう伝える。
 Happy are those who know they are spiritually poor,the Kingdom of heaven belongs to them!
 ルカはこうだ。
 Happy are you poors, the Kingdom of God is yours!
 目の前の聴衆を、「貧しき人たち」と読んで祝福し、天国を約束するルカのイエスに対し、マタイによって天国が約束されるのは、あくまでも「神の前にへりくだる」という条件を充たした人々なのである(日本語訳より英語訳の方がギリシャ語原典に近いというのは全くの誤解であることも田川に教えられたが、この部分の違いは英語訳の方がきわめてクリアであるように思われる)。その条件を充たさない人たちは、外の闇に追い出され、泣き叫び、歯がみすることになるのだろう。選ばれなかった人たちが、「泣き叫び、歯がみする」というのは、マタイお得意の表現である。
 これは決してルカの方がマタイより優れているといったようなことではない。しかし、ヘレニズム文学の1つとして書かれたルカ福音書と使徒行伝に対し、マタイ福音書が、一定の傾向(信仰義認説的なパウロ流の教えに対する反発)をもったマタイ教団の正典として編まれたという事情を伝えるものとして極めて興味深い。
 それから、図書館においてある限りの田川建三の著作を借りだして読んだ。その何冊目かが、この「書物としての新約聖書」だ。
 新約聖書の入門書として、決定版、といっていい。新書版の入門書をいくら読んでも分からないことが、懇切丁寧に解説されている。「新約聖書はなぜギリシャ語で書かれたのか」という問題を取り上げた本は他にもあるが、当時のヘレニズム世界でどのような言語が使われていたのか、その中でギリシャ語はどのような位置にあったのかまで論じ、使徒行伝の「リカオニア語」を「リカオニアの方言」と訳してしまう無神経さに憤るのは田川だけだ。聖書の翻訳において、できるだけ正確な翻訳を提供しようとする学究的な誠実さが、布教、護教といった教会的な利益に道を譲る傾向に警鐘を鳴らす。「より難しい読みほどより可能性がある」(lectio difficilior)という正文批判の原則も、田川の解説で初めて納得した。正典結集の過程について、それ以前に、各福音書がどのような形で流布ししていたのかというところから説き起こすのも田川ならでは。現在、聖書がどのような形で残されているのか、ヴァチカン写本、シナイ写本といった大文字写本の紹介から、アレクサンドリア型、西方型、ビザンチン型の分類に及び、マルコ福音書だけにみられるカイサリア型に言及した部分は、まさにマルコ福音書の研究から出発した田川の真骨頂だろう。
 僕は最初借りて読了した後、約2年後にもう一度借りた。その時は、何か別の聖書関連本を読んでいて、この本を参照したくなったのだったが、参照しているうちに結局もう一度通読してしまった。そして、また別の機会に参照したくなったとき、僕は図書館に行かず、書店で8400円払って購入した。廉くはないが、それだけの価値は十分にある。
 田川建三の出発点は、ストラスブール大学の学位論文である「原始キリスト教史の一断面〜福音書文学の成立」であり、代表作は東京学芸大の学園紛争からアフリカでの教師生活といった過酷な実生活の中でものされた「イエスという男」ということになるだろう。もちろんそれらは優れた仕事である。また、「神を信じないクリスチャン」である田川の「クリスチャン」としての一面をみせた「キリスト教思想への招待」もいい。
 しかし、田川の優れた批評は、キリスト教関係に限定されない。「思想の危険について〜吉本隆明の辿った軌跡」は、吉本批判も鋭いが、そこに示された親鸞解釈はずいぶん勉強になった。「批判的主体の形成」は、学園紛争を論じたものとしてこれほど冷静で、かつ暖かい評論をほかに知らない。
 田川の他者に対する鋭い批判の根底には、誰に対する批判よりも厳しい自己批判がある。それは「宗教とは何か」、「イエスという男」の新版で読める旧版改訂の過程からも明らかだ。そういった突き詰めた姿勢が、何気ない随筆にさえ滲み出ている。「Aという考え方は正しいが、しかしBという面もある」というのと、「Bという面はあるが、しかしそれでもAが正しいのだ」という言説は違うのだ、という意味のことを鎌田哲哉が力説していたが、田川の評論は後者の典型であり、であればこそ読み応えが違うのだ。
 田川は、もはや残された時間は少ないとして、こういった一般的な批評活動からは手を引き、研究活動に専念しているらしい。その成果は、「新約聖書・訳と註」として刊行されつつある。「パウロ書簡」と「マルコ福音書・マタイ福音書」しか読めていないが、「聖書のような古典を注釈抜きの翻訳だけで読ませようとするのは布教の便宜でしかない」という田川の姿勢を具現化するものであり、マルコのギリシャ語がいかに練れていないものであるか、マタイはそれをどのように引き写しているのかが分かるように工夫されている。
 この仕事も是非やりとげてほしいが、田川にはもうひとつ「事実としての新約聖書」という仕事が残っている。新約聖書が描いた出来事、特に複数の福音書によって語られているイエスの生と死が、事実としてはどのようなものであったかを描いた著作になるはずだ、と期待している。

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